捫参記

ДНЕВНИК ЛИШНЕГО СТУДЕНТА

相対化

 最近、自分とは他者との関わりの中でのみ位置付けられると考えることが多い。他者との関わりの中で自分の位置を確認し続けなければ、自己を見失ってしまうと考えたからだ。私は、今まで自らの主体性によって多くの判断をこなして来たと考えていたが、自分をこのように定義すると、主体性とは何物かという疑問が湧いてくる。日本国語大辞典を引くと「行動する際、自分の意志や判断に基づいていて自覚的であること。また、そういう態度や性格をいう。」とある。このように、一挙手一投足が自分の意思によって実現され、あらゆる判断を内在的な意識の内で行うことを「主体性」というわけだ。しかし、自分固有の意思というものは果たして内在的なのだろうか。はじめに述べたように、自己の存在が他者との関わりの中でのみ確認され得るとすれば、内在的な意思など存在しないことになるのではないだろうか。となれば、自分が何者で、どのように生きて来たか、あるいは生きて行くのか、それを決定せしめるのは相互作用によるものと定義できる。すなわち、主体性という性質さえも不特定多数の他者との相互作用によって実現されていて、多かれ少なかれ他者の影響を受けている。主体と客体のあいだにはグラデーションのような漸移帯があるような気がする。
 もはや陳腐になっているが、自分探しという言葉がある。多くの若者が自分探しと称して行う行動は「ひとり旅(バックパッキング)」だ。私は自己の位置付けという意味での「自分探し」をするのであれば、旅はあまり効果的な解決法ではないと感じる。旅を否定するわけでは無いが、旅という行為は移動することが本意になることもある。それに、異国の風にあてられて、違う場所にいる優越感や、ある種の選民意識のようなものが芽生えてしまう例が多いように思う。後者は厄介で、思索が伴わず経験だけが重ねられる結果を招くことになる。
 本来の意味で相対化するためには、異なる土地に住み、異なる言葉を話し、異なるものを食べ、異なる場所と同化しようとする過程が必要ではないだろうか.ここで初めて、同化することができず,自分が「異物」となっていることに気づく。この異物感の起点を見定めることが出来れば、自分を位置付けたことになるのではないだろうか(=自分を見つけた?)。すなわち,異物感、もしくは言い表せない疎外感を感じて初めて、自己の相対化への第一歩を踏み出したことになる、と私は考える.

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